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JUGEMテーマ:ココロと闘う
久しぶりに帰ってきました。ここは昔に戻るところ、かもしれない。
おかげさまで再生した人生は順調です。新しい家庭も仕事も順調です。
クルマも変えましたよ。同じスバルですけどね。
ここには人生の縮図が記録されているわけで、お役に立つ人もいるかもしれないと思っていますが、もう不要かな?
まあ、人生行き詰ってここに来た人へ。
人生最悪だな、と思っても何とかなるものですよ。長く生きてこそですよ。自殺したってしようがない。生きて再生した方がずーっといいです。
そう信じていれば風向きも変わりますって。
JUGEMテーマ:ココロと闘う
スポンサー広告が出ているので、たまには更新することにします。
毎日更新に疲れてこのブログは休眠に入りましたが、メンタル的に言えば書き続けた効果は大きかった、と言えると思います。
自分の考えを客観視して行くことはメンタルヘルス上、重要なことでした。多分脳内でストレスとなる「制御不能なこと」が整理されるからではないかと思います。
趣味で書くようなグルメ記事位でも同じ効果は出るようですね。次のブログは同じようなことやってるんですが、不定期更新ということでストレス下がりましたしね。
まだ、ある意味、メンタルカムバックの記事が参考になるかたがいればいいなと思い、削除はしません。
またその後どうなっているかは、下記のブログでも見に来てください。
では!
JUGEMテーマ:ココロと闘う
本日をもってこのブログは更新を終えたいと思います。
2009年の7月4日から今までのべ7年間、後日更新を含めて毎日更新してきましたがそろそろマイペースで更新したいと思います。
毎日更新していたのは病んだココロを吐き出して正常化するプロセスだったからです。いいことも悪いこともなんでもないことも書き出すことで吐き出してきました。
離婚当時、6歳だったムスメもいまや中学生。養育費は払い続けていますが、なしのつぶて。
こちらも新しい家族が出来て、新しい職場で働いています。
ココロを病んだのも過去のものにしたい気持ちもあります。病んでいるけど安定運用していると言うことです。
過去は消せないけど、そっとしまって置きたい、と考えます。
難破してからの航海は一応、終わってしまったのです。
今は新天地での生活がメインですから...
このブログは、I先生という臨床心理士の先生のお役立っているそうです。
ですから、これはこれで教訓らしきものもあるのかもしれません。
それとは別に新しいブログを書き出したいと思います。
新しいブログは以下の通りです。
http://lus-logbook.jugem.jp/
JUGEMテーマ:季節の出来事
今日は朝から暑かった。ムスコ氏連れて実家へ行き、お買い物へ行く。来週から我が家というか両親も介護を受けることになった。
介護2級なのでお掃除くらいだがこれだけでも随分家族にしてみれば楽なものだ、お掃除道具を買いに行ったのだが、フィアット500は軽枠に駐車しても問題はない。
エアコンも今年は車検後だったのでマズマズだったが、いかにせん、燃費が悪化する。1Km/L位の割でコンプレッサーに食われている。これは排気量が小さいから仕方がないのだが何とかならんものかな?
気温が高いから燃費は向上するはずなのだが?
1.2L換算の排気量(900cc×1.5)で11.6Km/Lは燃費がよいとはいえない。もう少し運転が上手くならないとダメである(ハチ!)
日本側は得る利益が少ないから、確信的に交渉を決裂させている可能性がある。日本側は決裂してもしなくても目標を達成できるのに対して、韓国側は決裂できなかったはずである。
ある意味、駆け引きが出来なかった韓国は舞台から退場することになってしまった。
外交とは駆け引きであるから、相手側の同意を得るような交渉や交流が行われていなければならない。今の二国間の状態ではムリである。
(朝鮮日報日本語版) 韓国漁船、7月から日本のEEZで操業できず=韓日漁業交渉が決裂
朝鮮日報日本語版 6月30日(木)8時18分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160630-00000592-chosun-kr
韓日の漁船が相手側の海域で漁獲できる魚の種類や量を定める韓日漁業交渉が決裂し、7月から韓国漁船は日本側海域での操業ができなくなる。まず、タチウオ、サバを取るために日本海域に出漁している韓国漁船75隻は30日までに撤収しなければならない。
韓国海洋水産部(省に相当)は29日、22−24日に東京で開かれた韓日漁業交渉第2回小委員会で入漁規模と漁獲割当量、操業条件などを協議したが、合意に至らなかったことを明らかにした。韓国政府は局長級による小委員会で合意に至らなかったため、日本側に室長級協議を提案し、外交ルートによる働き掛けも行ったが、協議は不調に終わった。
今回の交渉は、2016年7月1日から17年6月30日までの期間に相手側海域で何隻の漁船がどれだけ操業するかを定めるもので、1998年に韓日が結んだ漁業協定に基づくものだ。韓日両国は排他的経済水域(EEZ)の重複問題を受け、調整のために漁業協定を結んだ。協定によると、両国は毎年、相手側水域で操業する漁船の数、漁獲量、操業区域などで合意しなければならない。
■決裂の原因はタチウオ
今回の交渉で問題となったのはタチウオだった。韓国政府は日本側にタチウオの漁獲割当量を現在の2150トンから5000トンに増やすよう求めたが、日本側はタチウオ漁を行うはえ縄漁船の許可数を現在の206隻から73隻に減らすことを求めて対立した。はえ縄漁船は1本の縄に多数の枝縄を付け、枝縄の先端の釣り針で漁を行う。
韓国政府は日本側に要求が受け入れられなければ、韓国側海域で操業する日本漁船の割当量を縮小し、操業禁止海域を新設すると主張したが、双方の溝は埋まらなかった。日本は自国の水産資源減少、韓国漁船による違法操業などを問題視したとされる。
韓国政府がタチウオの漁獲割当量増加を求めたのは、韓国のはえ縄漁船が日本のEEZの東シナ海漁場でタチウオを主に取っているためだ。韓国の巻き網漁船も対馬周辺の日本のEEZでサバを取っている。タチウオとサバは1カ所にとどまらずに回遊するため、漁場は韓日双方に随時移動する。
海洋水産部によると、昨年の韓国側のタチウオ漁獲量は4万1049トン(2441億ウォン)、サバは13万1735トン(2177億ウォン)だった。うち日本側EEZでの漁獲はタチウオで全体の4.5%、サバは8.9%とされる。韓国の漁民は「特定期間に日本の海域でタチウオを取ることができなければ、収支の計算をあわせられなくなる」と主張している。
■操業中断の長期化懸念
今回の合意失敗で、両国の漁船は相手側EEZでの操業ができなくなった。仮に違反して操業すれば、無許可となり、拿捕(だほ)対象となる。漁業交渉が決裂したのは今回が初めてではない。2014年6月にもタチウオの漁獲割当量をめぐり交渉が決裂した。当時韓国政府は2100トンだった割当量を8000トンに増やすことを日本側に要求。日本側はサバ漁を行う巻き網漁船のトン数を増やすよう求めた。結局交渉が妥結する15年1月まで6カ月以上、相手側海域での操業が全面中断された。
問題は日本よりも韓国の方が相手側EEZでの操業に対する依存度が高い点だ。15年1月から今年6月までの期間に韓国は日本側EEZにおける漁獲量は漁獲割当量6万8204トンの54.8%だったが、日本側の漁獲量は漁獲割当量の5.8%にすぎなかった。日本は韓日漁業協定が得にはならないと考え、漁獲割当量の削減を進めようとしている。このため、韓国の漁獲割当量は1999年の14万9218トンから15年には6万8204トンにまで減少した。海洋水産部関係者は「漁民の被害を最小限にとどめるため、速やかな操業再開に向けた交渉を進める」と説明した。
JUGEMテーマ:四十路のつぶやき
ワークライフバランス、という言葉が大手を振って語られるようになって等しい。が、実際に実現できている人、企業ってほとんどないのではないか、と思う。
ワークライフバランスの実行には、企業の雇用体制と人員配置、そして労働者の裁量という要素がうまくバランスして初めて成り立つのではないかと思う。
実際、昨年度までは予備の人員が確保できなかったから、何でも一人、休み、穴あけは許されず、精神的に休んでというのはメンタルが追い詰められた時の緊急回避措置となっていた。
今年度は5月からサポート要員が入ったおかげで業務負荷が減り、何とか回せる余裕が出てきた。本人に余裕ができてくれば、「ここはいなくてもいいな」とか思えるから自然とサボるようになる。このサボる、というのはポジティブな意味のサボりである。つまり、積極的に会社とかかわらなくなるようになるのである。 これは嫌な業務にあてられていない場合に限ってだが、今の自分はやりたいことをやりたいだけ責任をもってやっているから、かなり裁量があると感じている。この裁量から出てくる余裕で、業務の見直しや改善ができるようになってくる。
そうするといいスパイラルが回り始めて、仕事と生活のつり合いが取れてくるし、家族のことを思うことができるようになってくる。仕事は飯の糧だから、精神的にどうしても家族より優先されがちのはず。 余裕ができてくれば、仕事と家族を天秤にかけて公平に優先順位を判断できるようなる。仕事もハッピーなら家族もハッピー、自分もハッピー、ということである。
これは残念ながらすべての人が享受できているわけではないのが今の日本の状況である。なぜなら、自分で好きな仕事を裁量をコントロールしながらやってる人なんてほとんどいない。かくいう自分だって、時と場合によってはコントロールできない時も多い。でも以前はゼロだったが、今は限りなくイチに近い。ゼロとイチでは大違い。
ホントの幸せを考えることができて、将来の不安を具体的に考えることができるようになる。生活に流されていれば立ち止まれない。
立ち止まって初めて、ワークライフバランスは始まると思う。 走りながらはない、と思う。
つまり、「相手と殺しあってでも国の権益を守れ」と命じるのは政治家である。軍隊はそれを実現する手段の一つである。だからこそ自衛隊は存在し、国土防衛から災害救助、様々な活動を行っている。
それをこのように発言すること自体、政治とは何かを理論的に理解した上で実践できない人である。こんな人に政治に携わって欲しくない、と思う。
自衛隊こそ、「人を支え、育てる」組織なのだから、勘違いも甚だしい。
共産・藤野政策委員長辞任 「人殺すための予算」発言で
2016年6月28日22時59分
http://www.asahi.com/articles/ASJ6X7GZTJ6XUTFK013.html
共産党の藤野保史(やすふみ)政策委員長(46)は28日、防衛予算について「人を殺すための予算」と発言した責任を取り、政策委員長を辞任した。藤野氏は記者会見で「党の方針と異なる誤った発言で、結果として自衛隊のみなさんを傷つけたことを深く反省し、国民のみなさんに心からおわび申し上げる」と述べた。同委員長は当面、小池晃書記局長が兼任する。
防衛予算「人を殺すための予算」 共産・藤野氏が撤回
藤野氏は26日のNHKの討論番組で、防衛費が2016年度当初予算で5兆円を超えたことなどを指摘した際、「人を殺すための予算ではなく、人を支え、育てる予算を優先していく」と発言。同日夕には党広報部を通じて「不適切であり取り消す」との文書を出し、発言を撤回したが、自民、公明両党の批判の的となった。安倍晋三首相は26日、甲府市での演説で「自衛隊に対する最大の侮辱だ」と指摘した。公明の山口那津男代表は28日、新潟市の演説で「血も涙もない共産党に、人々の命や財産を任せるわけにはいかない」と指摘した。
藤野氏は衆院当選1回。今年4月、政策委員長に抜擢(ばってき)されたばかりだった。党関係者は「火が広がりすぎ、どうしようもなくなった」と話した。
ポルシェが強いのは、トラブルへの対応のタフネスさにあると思う。今回のトヨタはタイミングがあまりにも悪かったが、1976年のレースでは、ポルシェはグループ5の935/76が残り4時間の時点でエンジン6気筒のうち、1気筒がブロー、吹き抜けてしまったのだ。
ポルシェのエンジンはコンロッドを守るため、エンジンがブローして吹き抜けるのはバルブ周りなのが幸いし、クルマはピットにたどり着いた。エンジニアは約1時間でこの1気筒を塞いで5気筒としてエンジンを修理し、コースに送り返したのだ。総合優勝こそ逃したものの、このマルティニレーシングの935/76はクラス優勝を果たしている。
レースに勝つにはこういう運がいるのかも知れない。
トヨタ、ル・マン24時間での5号車TS050のストップ原因を発表
2016.06.23
AUTOSPORTweb
トヨタは6月18〜19日に開催された第84回ル・マン24時間耐久レースで、首位を快走しながらもストップした5号車トヨタTS050ハイブリッドのトラブルの原因について、「ターボチャージャーとインタークーラーを繋ぐ吸気ダクトまわりの不具合によるもの」と発表した。
悲願の初勝利に向けて、レース後半から2号車ポルシェ919ハイブリッドと争いながらトップを走行していたアンソニー・デイビッドソン/セバスチャン・ブエミ/中嶋一貴組5号車トヨタTS050ハイブリッド。チェッカーが近づく頃になるとその差は1分半ほどに開き、サルト・サーキットは多くが『トヨタのル・マン24時間初勝利』を祝うムードとなっていた。
しかし、フィニッシュまで残り6分半というところで、5号車をドライブしていた一貴は、ポルシェカーブを立ち上がったところで不調を感じ取り、無線で「ノーパワー!」と伝えた。一貴はなんとかTS050ハイブリッドを1周させるも、メインストレート上でストップ。その横を2号車ポルシェが通過し、フィニッシュまで残り3分での首位交代となった。
この突然のトラブルについては、当初トヨタからは原因は明かされていなかったが、23日「ターボチャージャーとインタークーラーを繋ぐ吸気ダクト回りの不具合によるもので、これにより、ターボチャージャーの制御が失われた」と発表した。
1983年3月、初めて米国テキサスの地を訪れたことは鮮明な記憶だ。それは、自分が英語が話せず、聞き取れず、理解できないという事実を突きつけられた原点でもある。
ホームステイ先のご家庭は牧師さんのおうちで、普通の家庭より心のあり方を考えさせてくれるよいご家庭であった。当時8歳と6歳の娘さんもいて、結構恵まれた環境であったと思う。それでも3つのできないは思い出したくもないツライ記憶である。「キミは黙っていては何も判らないよ。遠慮は要らない、何でも言ってくれ」と言われた時には涙があふれた。 言いたいことが言えないことが説明できないくらい辛いことはない、と思った。それが自分の英語学習にかける原点である。「いつか知らない。でも次に来た時にはこんなことにはしない」それを心に誓ってはや35年が過ぎ去ろうとしている。
ダラスの地を再訪することはまだ果されていない。 しかし、多くの方が鬼籍に入られようとしている現在、もどかしい気持ちである。
振り返って、英語は上達したかと自問する。確かに平均的な人よりは上達しているだろう。 近年は仕事でも英語を使っているしね。さすがに英国では多少苦戦するが米国では互角、他の国では優位になることさえある。しかし、ここまで35年は長いか短いか? これは大きい。目標は達したと思うのだ。しかし、これは通過点に過ぎない。 遥かなる頂上は見えないが、たゆまずに歩んでいくことになろう。