必死の思いで病院の入り口をくぐった。 血だらけの汚い爺さん担いでいるので、あっという間の人だかり。
「ER、ERだよ」と叫ぶ。
すると人垣が割れて、ERの人らしき人がタンカ持ってやってきた。
「またこいつか」 タンカ運びの一人が言う。
「え、どういうこと?」
「この爺さん、ぢ、なんだよ。 ぢ、の所がキレて出血してるのさ。 でも病院いやらしくてさ、手術済んだらスグ逃げちまってカネ取れなかったらしい。」
「カネはどうするの?」
「運び込んでくれて嬉しいけど、爺さんカネないんだよ。 アンタ持ってきたんだ、替わりに払ってくれ」
「え、俺なの?」
「ヤッカイなことに感染症になってしまうから、手も入れるからね。 500ドルだよ。」
「500かよ。 ココは保険が無いんだな。 俺が払わなきゃいけない法はないだろう?
「ヤッカイ事持ってきたことには違いない。責任だよ」
ぐうの音も出ないこと言いやがって...
「オルライト。500払う。その代わり爺さん脱走させて同じコトさせないようにしてくれないか」
「キャッシュならOKだ。 カードなら700だ。」
「わかった、判ったよ。 500だ」 と500ドルを渡す。 駐在員の自分ならちょっとした金額だが、現地では大金だ。 1週間分の平均給料だ。
「OK。アンタはいい奴だな。 神様の恵みがありますよう」
こいつの神が何かわからないか、アラーでもキリストでもなんでもいい、爺さんしななければ。
汗と血と汚臭にまみれて遅刻してオフィスに着いた。 受付嬢は目が点になっている。
デスクに着くと、向かいのジェニー・フワ嬢が聞いた
「ホームレスとケンカでもしたの?」
「行き倒れのぢのホームレスを病院に担ぎ込んだのよ。 そしたら俺が金を取られたよ。 この国には福祉が無いのか?」
「福祉はあるわよ。IDカードがないと何も治療は受けられない。 マウント・エミリーの病院でしょ? あそこは貧窮院もあるから、500シンドルで済んだのよ。他だったらまとめて放り出されてるわよ」
「ふーん」
「それにしても汚くて臭いわよ。ボス中村にはテキトーに言っておくから、帰って出直してきたほうがいいわよ。 既に噂のタネになってるんだから」
「サンキュウ、ジェニー」
とりもなおさず、ウチに帰ろうとしたら運転手頭のサラムが受付にいる。
「ミスタふぇりっくす。 話は聞いたよ。ハラージュをなさったらしいね。あの爺さん、有名人なんだよ。昔はロールスのリムジンでビズの打ち合わせにココに来ていたらしいが、騙されて会社をのっとられてあのざまなのさ。 キミはこのサラムが助けてあげよう」
サラムはモスレムだが、なぜか自分を赴任当初からかわいがってくれている初老のマレー人だ。 好意に甘えてサラムの運転するリムジンで自宅へ取って返す。
「シャワーを浴びて着替えておいで。また会社に連れ戻すようにジェニーに言われてる」
「オルライト。 10ミニッツだ」
帰りの車中、サラムに訊いた
「あの爺さん、どういう人なんだい?」
「噂では、ジム・トンプソンらしいが、判らない。トンプソン自身、生死がハッキリしない人だから。」
「アレはタイの話じゃないの?」
「タイで会社をのっとられて、ここ、シンガポールに流れてきたらしい。」
「ただの行き倒れじゃないのか」
「噂だから真相はわからない。」
「......」
この時はこれで終ってしまった。
3ヶ月ほど後、受付が来客だと言う。 今日はアポが無い、というと、相手は年寄りでオマエが来るまで帰らないと言ってるからどうすると訊いてきた。行く、と答えて受付に行った。
麻のスーツに身なりもこざっぱりした初老の紳士が待っていた。 こんな奴は知らないぞ、と思いつつ、挨拶をする。
「どういったことでしょうか?」
「キミはワシの恩人だ。 この間はありがとう」と頭を下げる老紳士。
「待ってください。私は身に覚えが無いんです。間違いではないですか」
「キミは忘れてしまったのか? 血まみれで行き倒れかけていたワシを病院に担いでくれたのが君だったんだ。3ヶ月前の今日さ」
記憶を探る。 え”−、あの血だらけ爺さんかよ!!
「あれは、たいしたことではありません。500ドルで命を買ったと思えば安いし、自分もああなるかもしれない。 その時には助けてもらいたいからやったようなもんで礼をいわれほどのことじゃないと思うんです」
「いやいや、あの後、病院ではキミが言いつけたとおり、治るまで面倒を見てくれた。 よくなって、日銭稼ぎの仕事で病院のツケを払って、これからタイへ戻る。 その前に恩人に礼を言いに来ただけじゃ。 その時もことも含めて、これを受け取ってくれないか?」と老紳士は小切手を取り出して手渡してきた。 額面5000シンドル。
「それは、わざわざ恐縮です。 でもアレはこんなカネに換算するものほどではない。 それにこんな大金どうされたんですか」
「働いた、ということだよ。受け取ってくれ。」
「救急車のまねごとに5000シンドルの大金が見合うんですか。僕は金に困ってないわけじゃないが、受け取る理由が見つけられないし理解できない。」
「そうだと思うのか? お前さんは、ワシの命を取り戻したんだぞ。」
「結果はそうでしょう。でもそれを目的にやったけど、それは代価は換えられないことだと思う。5000シンドルは安すぎやしませんか?」
「もっと金をよこせというのか?」
「違います。金に換えられないということをわかってほしいだけです。」
「ふむ。じゃあ、君のビズが暇になったら連絡をくれないか」爺さんは名刺を取り出した。
マイケル・トンプソン
え、シルク王はジム・トンプソンだったよなあ??
「解りました。連絡をします。ここからタイなら遠くない。お訪ねします。その時にメシをおごってください。それでチャラです。」
「お若いの、約束だ。」
「はい。」
つづく