認知症に潰された天下統一(長文)
この内容はなかなか興味深い。 明智光秀が認知症、あるいはアルツハイマーで暴走して、稀代の権力者である織田信長を討ち取ってしまった、とすれば、偶然とは恐ろしいものである。 しかし、痴呆症は若年でも発症することは最近の医学でも確認されていることであるので、あながちありえなくはない。
これが歴史の面白いところではあるのだが、歴史に「たら」「れば」はない。 認知症の老人に討ち取られる隙があった信長にこそ運のなさを見る。
だとしたら、本当の運は誰が握っていたのか、興味深い仮定である。
本能寺の変の意外な真相〜明智光秀は認知症だった!?
2014年06月06日 公開
http://shuchi.php.co.jp/article/1953?
岩井三四二:著『とまどい本能寺の変』(ISBN-10: 4569816851 ISBN-13: 978-4569816852)より
本能寺の変に黒幕はいたか
気になる人物、近衛前久の疑惑について検討する前に、本能寺の変の真相について、私の持論を披露したい。
まず、「なぜ光秀は信長を討ったのか」という大きな謎にとりかかる前に、光秀その人について検討してみよう。
私が注目しているのは、光秀の年齢である。
通説では変の当時、55歳だったとされている。映画やテレビでも光秀役は30〜50代の俳優が演ずることが多いようである。
しかし通説ほどあてにならぬものはない。働き盛りの武将としてふさわしい年齢なので、55歳説は広く受け入れられてきたが、その根拠は実はひどくあいまいなのである。
昭和33年(1958)刊、高柳光寿著の『明智光秀』(吉川弘文館)に「光秀の年齢」という項目がある。
ここでは、まず最初に「光秀の年齢はわからない」としつつも、『明智軍記』という書物では55歳としているとし、この書は悪書で信用できないが、
「しかし何だかそれくらいではなかったかというような気もする年齢である。そして光秀の年齢はこの書以外には全く所伝がない」
と結ぶのだ。
これが55歳説の根拠である。
著者の高柳氏は日本歴史学会長をつとめた戦国史学の重鎮で、しかも学者による光秀の評伝はこれが最初、ほかに異を唱える学説もないこともあって、「何だかそれくらいではなかったかというような気もする」だけで光秀は55歳とされてしまったのだ。
高柳氏が最初に「光秀の年齢はわからない」と釘を刺しているのに、結果的に数字だけが一人歩きしたのである。昭和30年代とは、まことに大ざっばな時代だったようだ。
しかし、学問は進歩する。
昭和33年以降これまでに、いくつかの史料上に光秀の年齢が記載されているのが発見され、報告されてきた。その結果、55歳説のほかに57歳、63歳、そして67歳の3つの説が新たに出てきたのである。
それぞれの説を検討してみよう。まず55歳説の出所である『明智軍記』は、江戸時代中期、元禄のはじめごろに刊行されている。つまり光秀死後100年以上もたってから書かれた軍記物である。
軍記物とはなにかといえば、「江戸時代に書かれた時代小説」と思ってもらえばよい。すなわち「創作物」であり、面白く読まれることを眼目として書かれ、木版刷りで出版された書物で、歴史の事実を伝えるものではない。高柳氏は『明智軍記』を「誤謬満載の悪書」と指弾しているほどである。事実と空想を混じえて書かれているので、歴史史料としてはあつかえない。
またいくつかの系図類も55歳説をとっている。系図類までふくめると、史料の数からいえば55歳説が一番多いようだ。しかし系図類は、信頼性としては軍記物と同等か、それ以下の評価しか与えられていない。前記の高柳氏も系図類は重視せず、というより無視して論を進めている。
57歳説は、肥後熊本藩細川家の家史である『綿考輯録』にある説だが、これは18世紀終わり、つまり光秀の死後200年ほどたってから編纂されたものであるし、63歳説は軍記物で、『明智軍記』とほぼ同じころに書かれた『織田軍記』にあり、いずれも史料の信頼性という点で疑問符がつく。
その中で、『当代記』という書物に、「明智、時に六十七歳」との注記があるのが昨今、注目されている。これは戦国史研究家の谷口克広氏がその著『検証 本能寺の変』(吉川弘文館)で指摘されたのを嗜矢とする(光秀の年齢に関するこの書の記述も、同書に教えられるところが大きい。紙面を借りて御礼申しあげます)。
『当代記』は江戸時代初期に書かれており、しかも軍記物ではなく、年代記の体裁になっている編纂物、つまり史実を伝えるために書かれたものである。時代小説の『明智軍記』よりはるかに信用できる書物なのだ。書物の信用力が書いてある内容の確実性を保証すると考えれば、67歳説は有力となる。
以上をまとめると、57歳、63歳説は史料の信頼性で劣り、支持しにくい。おなじく信頼性は足りないものの、史料の数でいえば55歳説に軍配があがるが、史料の信頼性の高さからすると、67歳説をとるほうが合理的ということになる。
どちらをとるかという話になるが、私は67歳説をとりたい。『当代記』の記事は全般におよそ信頼できるものであるし、55歳という「らしい」年齢でなく、67歳というちょっと「意外な」年齢を書き込むあたり、それなりの裏付けがあったはずと思うからだ。なにより光秀死後数十年の、生前の光秀を見知っている人がまだ生きていたであろう時代に書かれている点が強い。
しかし光秀の年齢を67歳とすると、別の問題が生ずる。人生50年といわれた戦国時代に、67歳のご老人が鎧を着て合戦をするなど、感覚的には受け入れがたいのである。本当に光秀はこんなに老けていたのだろうか。
だがちょっと調べてみると、当時でも高齢者は十分に活躍していたのがわかる。
織田信長の右筆に70歳前後と思える者が楠木長諳と武井夕庵のふたりおり、京都所司代の村井貞勝も70歳前後、旗本の武将にも少なくともひとり−稲葉一鉄−はいる。
本能寺の変の時点で、信長の下には方面軍団長ともいえる家老格の重臣が4人いた。畿内をうけもつ光秀のほか、北陸方面の柴田勝家、関東の滝川一益、中国の羽柴秀吉である。
それぞれの年齢をみると、秀吉だけは飛び抜けて若く46歳だったが、滝川一益は58歳、柴田勝家は60歳前後(57歳、58歳など諸説ある。『フロイス日本史』には60歳に達しているとあり、高柳光寿氏は62歳としている)だった。ここに明智光秀67歳を入れても、さほど違和感はないように思える。
さらにいえば、徳川家康が大坂夏の陣を指揮したのが74歳、毛利元就が最後の子供を作ったのが71歳と、元気なお年寄りはいつの時代にもいるものなのである。
光秀が67歳だったとしても、戦国武将として不自然ではない。やはり『当代記』の記述を信じていいのではないかと思われる。
と、年齢について結論を得たところで、つぎに光秀の「小さな謎」について考えてみたい。
ここで「小さな謎」というのは、本能寺の変前後に見られる光秀の不審な行動のことである。さまざまな史料に、本能寺の変の少し前から死の直前までの光秀のようすが描かれているが、その中に気になる動きがあるのだ。たとえば次のようなものである。
(1)徳用家康を接待するよう命じられた光秀の安土屋敷で、用意の魚が腐って悪臭をはなった。これを聞いた信長が腹を立て、宿舎を堀久太郎のところへ変更した。光秀は面目を失って、魚や調度品を堀へ投げ込んだ。(川角太閤記)
(2)家康の接待について信長と話し合っていたとき、信長の好みに合わぬ要件で光秀が言葉を返したため、信長は立ち上がり、怒りを込め、1度か2度、光秀を足蹴にした。(フロイス日本史)
(3)光秀が愛宕山に参籠したとき、神前で2度3度と籤〈くじ〉をとった。(信長公記)
(4)愛宕山で連歌を詠み終え、寺僧が笹粽を出したとき、笹の葉をむかずに口にした。(林鍾談)
(5)本能寺を襲う前夜、亀山城下に兵をあつめた光秀は、酉の刻(午後六時)、自身で兵のあいだを馬で乗りまわり、三段に備えた。(川角太閤記)
(6)おなじく前夜、兵を進発したあとで重臣5人をよんで信長を討つとあかし、もし同心しないときは本能寺へひとり乱入し、腹を切る覚悟と迫った。(川角太閤記)
(7)細川藤孝あてに出した書状の中で光秀は、畿内は50日100日のうちに平定するだろうから、そうしたら十五郎にまかせて引退すると表明。
(8)山崎の合戦に負けて勝竜寺城に籠もった光秀は、夜半、ひそかに抜け出て、大道を通らず、田の畔、薮原の中をつたい、忍び忍びに落ちていった。(惟任謀叛記)
(9)勝竜寺城を抜け出た光秀は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだ。(フロイス日本史)・
ほかにもあるが、信用のできそうな史料に限るとこれくらいだろうか。
こうした挿話のどこがおかしいかというと、たとえば(1)の挿話では、信長に人々のうわさがとどくほど悪臭がひどいのなら、なぜ光秀自身が気がつかなかったのか、という点である。
この時点、陰暦5月未は現代では7月上旬だから、冷蔵庫もない戦国時代に生魚が傷むのは当然である。そのあたりの配慮がないのもおかしい。
なおこの挿話を荒唐無稽だと否定する人も多い。『川角太閤記』も軍記物の一種であり、創作が盛り込まれているのは確かである。しかしここでは「その時節の古き衆の口」と情報提供者があったことを記しており、この節に関しては信用していいと思う。
(2)は、信長を怒らせている時点ですでにおかしい。光秀は織田家中ではよそ者として孤立しており、信長の支持だけが頼りだった。『フロイス日本史』にこうある。
「……(光秀は)その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」
信長への取り入り方を心得ていて、機嫌を損ねるようなことはしなかったから、あれほど出世したのである。なのに、このときは足蹴にされるほど信長を怒らせたとは、どうしたことだろうか。
(3)の神籤のとり方も、やはり異常である。光秀の焦りをあらわしているという見方が一般的だろうが、果たしてそうか。百戦錬磨の武将が、大吉や吉が出なかったからといって未練がましく2度、3度と籤をとった、とは思えない。
また2度3度と籤をとったのは、願い事がふたつもみっつもあったから、と解釈している人もいるが、それならごくふつうのことであり、人目に立つこともなく、記録に残されもしなかっただろう。ところが記録に書き残されているのだから、やはり当時の人々の目にも異常に映ったと解釈すべきである。
(5)の異常さは、「自身で馬を乗り回し、兵を三段に分けた」ところにある。
ふつう、大将は指示を配下の使番に出し、使番が侍大将に伝えて軍勢を動かすものだ。このときの軍勢は1万3千ほど。そんな大軍を動かすのに、大将自身が軍勢のあいだを走り回って指示を出すなど、尋常ではない。
しかも酉の刻といえば午後6時前後である。(6)と(8)、(9)もそうだが、このときの光秀は夕方から夜にかけて活動的になっているように見える。なぜだろうか。
(7)は、畿内を平定したら十五郎にまかせて引退する、としたところが異様である。
十五郎は光秀の嫡男だが、このときわずか13歳だった。自分が天下を混乱に陥れたのに、足許だけ整理したらあとは13歳の子供にまかせて引退するなど、正常な判断力をもっていたら表明できることではない。
しかもこの書状は、自分から離れていこうとする細川藤孝を、味方につなぎとめようと説得するためのものなのである。13歳の子供にまかせると書けば、説得どころか逆効果になるということが、わからなかったのだろうか。
以上は、みな細かいことである。
「日本史最大の謎」を議論しているのに、どうして「魚の腐ったにおい」が問題なのか、と首をひねる方もいらっしゃるだろう。
しかも異常さが感じられるという点をのぞけば、それぞれの項目にとくにつながりもないように見える。
だがここにひとつの仮定をおくと、不審が解ける上、すべてがつながってくるのだ。
その仮定とは、
「光秀は認知症にかかっていたのではないか」
というものである。
そう。認知症。主に高齢者の方がかかる病気である。
認知症というと「物忘れ」、「痴呆」といった症状が思い浮かぶが、そればかりではない。脳の機能が全般的に低下してゆくので、さまざまな異常が見られるようになる。
(中略)
このように、光秀が認知症であったとすると、これまで挙げた小さな謎がきれいに解けるのである。
そして、なぜ信長を討ったかという大きな謎も、あっさりと解ける。