聞けば、今回の李選手は在日4世で意を決して日本国籍を取ったそうである。 在日朝鮮、韓国の方は、住んでいる(所属する)国家という集団に帰属するのか、それとも民族的な集団に属するのか、大変な苦悶、葛藤があると聞いた。
東大教授の姜尚中氏も随分悩まれた、と聞いた。 彼は、民族的なアイディンティティに重きを置いているが、決心したt気には家族を捨てる覚悟だったとどこかで読んだ。
興味深いものは相撲の世界である。 外人であろうが、なんであろうが入門して実力があれば昇進する。昇進する過程で日本文化を理解するのか、3役以上になった力士は、堪能な日本語を操り、日本人としての勝負のカンで試合に臨んでくる。 国籍は関係なく、内面は和人となっている。 日本文化は、外国文化を取り入れながら変化し続けている。 所属するものを和人にする懐の深さがある。 外人と言って差別しているようだが、日本人以上にその文化を理解したものは日本人として扱われている。 ラフカディ・ハーン、ドナルド・キーン、ロバート・キャンベル、パトリック・ハーラン、オスマン・サンコン、など枚挙いとまない。
このような文化があるのだから、我々はもっと堂々と経済的に開国していく必要がある。 そのためには、世界の共通語としての英語を学ぶ必要があるのだろう。 アメリカ人や英国人の母国語のような英語は必要はない。
ビジン・英語のような、ローカルだがインターナショナルに使える言語としての英語の習得が必要だと思う。 そのためには、国語の学習と十分な習得が前提であると思う。 小学生から英語の勉強をさせたかったら、保育園。幼稚園でしっかりした日本語教育の実践が不可欠だと考える。 思考回路が日本語なら、それを使いこなす土壌の上に外国語は存在する。 すべてを英語で思考できるほどの文化的背景まで含めた教育は学校での英語時間では不可能だ。 だとしたら、バイリンガルの基礎としての日本語力は必要だ。
自分は運がいいことに、そのように育ててもらえた。 なので、英語でものを考えることができる。 その時の自分は日本人ではない。 はたしてそこまでの教育が出来なければ英語嫌いの子供、日本語が変な非日本人が量産されることだろう。