法律とは人間の社会生活の基幹をなす取り決めである。 守られる必要がある、 守ると言うのは解釈とかで局解するのではなく、法体系の一部として正しい形で実施されることだ。
人間の社会は、色々な情況が変化していく。決めたときには正しく機能していた法律も時間の経過や社会情勢、国際情勢で大きく変化する。 その変化に対応すべく法律は変えていかなければならない。 変えないことがいいことではない。 変えることにこそ意義があるのだ。
感情ではなく、戦争は悪である。 ならばそれを起こさせないために法律を変えることは必要なことだ。 わが国は戦争する機はないし、今の世界情勢では戦争は紛争解決の手段ではない。 しかし、不測の事態に備えるためにも法律は整備されるべきである。
戦争がいやなら、起こさせないようにすることが本来の目的だ。 平和を欲するならば戦争に備えよ(Si vis pacem, para bellum)、という格言の通りである。
「危険な法案」と煽る人たちの打算こそ国家最大のリスク集団的自衛権:戦わずに負ける国を目指すのか
2015.6.29(月) 森 清勇 JBPRESS
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44142
現在審議中の安保法案について、元首相ら長老と多くの野党、並びに与党議員の一部からも、「戦争巻きこまれ論」が聞かれる。
長老や野党は「外国人を殺し、日本人が殺される」「自衛隊員から死者が出る」など、国民の不安を煽り、また直接の当事者となる自衛隊員およびその家族の心理に圧力をかけ、法案反対の声が高まるのを期待するような言辞ばかりである。
朝日新聞(2015年6月14日付)は「『リスク』という言葉が氾濫する」「安倍晋三首相が出席した衆院特別委員会だけで、『リスク』は計328回飛び交った」と書く。しかし、リスクの対処策には触れず、ただただ、国民に「危険な法案」という印象だけを与えようとするかのようである。
職業自衛官であった筆者の経験や同僚の話などから総合すると、間口の広まり、すなわち対処行動の増大が問題ではなく、従来の法律の不備を補い自衛の対処が取りやすくなるということである。それでも問題は多々残されているが、戦争抑止力は高まり、日本の安全に寄与することになる。
自衛(または戦争抑止)法案である
国会論戦では憲法前文および98条2項の国際協調精神が前提にあることが忘れられている。ある評論家が「もう神学論争はご免だ」と言っているように、国際社会の現実に向き合う必要がある。
「政治はどこまでも政治であって『倫理』ではない。政治一般に対するセンチメンタルで無差別的な道徳的批判は、百害あって一利もない」(マックス・ヴェーバー著『職業としての政治』)ということを銘記する必要がある。
日本は憲法9条1項で「戦争はしない」としているから、「戦争(するための)法案」であるならば、明らかに憲法を逸脱している。
しかし、政府提出の安保法案は9条が許容する武力行使に至らないグレゾーンにおける対処や(集団的)自衛権が議論の焦点になっているように、自衛権行使の範囲や態様であり、国際法上の違法な戦争とされる侵略戦争を容認するものではない。
民主党や共産党、社民党などが言うように、「戦争する」ための法案ではなく、第三国から日本が攻撃された場合(すなわち、個別的自衛権発動)や、同盟国への攻撃が日本の存立に関わる場合(すなわち、新3要件に合致する集団的自衛権行使)に絞った法案である。
自衛権の行使は、不戦条約(1928年、ケロッグ・ブリアン条約)や国連憲章で許されている。しかも、不戦条約によれば、「自衛」の決定は当該国の権限であり、個別的と集団的の区別はなかった。
国連憲章(1956年加盟)で初めて個別的と集団的自衛権の区別が出てきたが、ここでも国連安保理が必要な措置をとるまでは、「個別的または集団的自衛の固有の権利を害するものではない」としている。憲法上の要請から、「必要最小限」として集団的自衛権に制約が課されている。
ただ、日本がいくら戦争を「しない」と誓っていても、国際情勢によっては、戦争を「仕かけられる」ことはあり得る。ざっくり言って、安保法案の審議が急がれているのは、国際社会はそうした緊迫した情勢になりつつあるという一点に尽きる。
過去においては脅威と見なされていなかった国が、今や国際法を無視して「核心的利益」を宣言し、がむしゃらに覇権確立に向かって行動しているということである。
日本はなぜ急ぐのかという疑問が出されるが、日本以外の国家は国家創生の段階から、すでにそうした法整備を終えているから問題ないわけである。日本のみが「異常国家」であり続けたのだ。
無責任な元首相や長老たち
慰安婦問題や安倍晋三首相が予定する70年談話に対する元首相や長老たちの言説に不快感を抱いていたが、安保法案についての新たな口出しを糾弾したい。政治家であった過去の無責任を反省しない厚顔としか言いようがない。
彼らは繰り返し、「なぜ今」「性急すぎる」「拙速だ」などの批判をして、成立を阻止しようとしている。
しかし、国家再建時に整備すべき法制を蔑ろにしてきた彼らが、「拙速」などと言うのは滑稽である。今日の危機(リスクの増大)を招いている遠因を有しているからである。
壮・青・少年たちが住む日本を存続させるためにも、「憲法死守して、国滅ぶ」状況を許すわけにはいかない。「遅いぞ」「今しかチャンスはない」と、議員たちに檄を飛ばすのが、長老たちの責務であろう。
先述の通り、どこの国においても安全保障関連法は国家の誕生とともに制定されるのが通常である。なぜならば、創建した国家が滅ぼされないためである。ちなみに、イスラエルは独立宣言したその日に、アラブ連盟5か国から戦争を仕かけられた。
日本国憲法は国民総意で作られたことになっているが、実際はGHQの脅迫の下に、戦えない日本を意図して作られたといっても過言ではない。
その後の国際社会で、日本はアジア・太平洋の平和と安定のために存立しなければならない国家と見なされるようになった。しかし、足下を見れば、いわゆる平和憲法のゆえに、自衛さえままならない日本になっている。
安保法案が国民に十分理解されていないという世論調査の結果もあり、端的な質問と丁寧な答弁が求められる。
しかし、国民を法案破棄に誘導するような、的を外しただらだらした質問ばかりで、野党が国民の理解を阻害しているとしか言いようがない。廃案目的では、国家と国民に責任を持つ政党や政治家とは言えない。
審議中の安保法案を違憲とする憲法学者が多いと聞く。彼らは憲法改正が先だと正論を張るが、硬性憲法と言われる厳しい改定条項によって一字一句たりと変えることさえできない。「憲法残って、国滅ぶ」は、笑い話では済まされない現実になりつつある。
今は国家の存立、国民生活の死活に関わる安保法案の審議である。日本が亡くなってもいいという政党ならばいざ知らず、そうでないならば、国家の存立を高める方向に侃侃諤々の論戦を行い、問題点の解消に努める必要がある。
しかし、いまの特別委員会は、無意味な質問と野次だけが飛び交う喧々囂々たる状況でしかない。
領土・主権・国民を守れなかった日本
そもそも、日本に安全保障基本法とでも言うべき安保法制がなかったのが不思議である。国際情勢の変化に追随していなかったのか、日本は領土と国民と主権を守り得なかった。
その最たるものが拉致問題である。憲法の平和主義がもたらした汚点である。中国のなりふり構わぬ覇権主義に対して、日本が機能不全に陥ってはならない。
いかに三権分立の民主主義国家とはいえ、国家の存亡の前では憲法解釈を最高裁に求めても、砂川事件で見たように、最高裁は統治行為として合憲違憲の判断を避けて、政府に任せるしかない。これが尋常な国家としての在り方であろう。違憲と判断すれば、国民には「死んでも抵抗するな!」というに等しいからである。
安保関連法案が国民に理解されないのは、護憲派の政治家たちが、その必要性を肌で感じようとしない結果、国会で真摯な議論を交わさないまま、年月を浪費してきたからである。
憲法9条を楯に安全保障問題を国民に理解させようとしなかったから、日本人の多くは安全保障問題を頭の一隅に置くことさえしなかった。そして、いつしか9条が平和を守ってきたという安全神話に取りつかれ、自衛隊の存在を災害で認識する程度に成り下がり、第一の任務が防衛にあることなど理解の外でしかないようである。
先に挙げた長老たちは、「決断すべきこと」を決断しなかった政治家であることを自白しているようなものである。こんな人物に国家のかじ取りと運命を任せてきたのかと思うと、恥じ入るばかりだ。
そもそも、今の危機、リスクの増大は日本が何かをやろうとしてもたらしたものではなく、日本が何もせず空白にしていた結果がもたらしていることを知る必要がある。
日本が「国家」を取り戻すとき
戦後の日本は「国家」であることを許されなかった。その取極めが憲法であった。しかし、それは軍事を米国に負ぶさり経済発展にだけ注力すればよかった「甘い戦後」であった。そこに、ソ連が強力なライバルとして表れ、「新しい戦後」を迎えることになった。
ただ単に、ソ連が力をつけてきたというだけではなく、水爆で米国に追いつき、ガガーリンの宇宙飛行で米国に先んじた。あわてた米国は中ソ分断を画し中国に接近する。これに刺激された日本が日中国交回復に動くと、ソ連は北方領土に軍隊は配備して日本を牽制した。
平和運動でも先頭に立ってきた清水幾太郎氏の『日本よ 国家たれ―核の選択』は、少なからぬ衝撃を与えた。1つは核の選択を提起したことであり、2つ目は言うまでもなく転向とみられたことである。
ソ連の国家戦略や軍備、中でも戦略核兵器の増強は日本の安全を損なうと直感し、氏は上梓に動いたのである。著書を読めば、氏が曲学阿世の徒でなかったことだけは確かである。
「米国が圧倒的な力を持ち、世界の警察官として君臨していた時代には、我が国の防衛力は常に補助的なものと考えられてきた。(中略)しかし、独立国家・日本のあり方として、これほどおかしなことはない」(清水著、以下同)という。
日ソの戦力を比較(空戦力はソ連の20分の1、海戦力は40分の1、陸戦力は12分の1)し、ソ連軍の日本上陸についてケース・スタディーをしたうえで、GNP(国民総生産)が世界2位になった日本に相応しい軍事力の必要性を力説した。
ソ連の戦略思想に「予防戦争」という概念があり、「死活的な利害の関わる地域」が米国同様にあるならば、優越し始めた戦略兵器で先制攻撃もあり得ると想定する。それに対して、米国が果たして反撃できるだろうかという疑問を持つ。
「南北アメリカ大陸さえ押さえていれば、日本を含めた他の西側諸国が、ソ連の支配下に入ろうとも、米国はプライドが傷ついても豊かに生きていける」と想定した。
そうした想定の下で、日本が安全、平和、福祉を得るためには、しかるべき代価を払わなければならないと述べる。当時(昭和55年)の日本は国民1人当たり87ドル(GNPの0.9%)であるが、英314ドル(4.7%)、仏349ドル(3.3%)、西独496ドル(4.2%)、米520ドル(5.0%)で、「日本は国家たる本質を奪われた状態に安住している積りだろう」と皮肉っている。
「日本は、経済活動を内容とする『社会』であるだけでなく、また、あるためにも、軍事力を本質とするひとり前の『国家』にならねばならぬ」と主張する。
清水氏の論考は時代の変わり目を的確にとらえ、日本の防衛の在り方に大きな刺激を与えた。ところがそのソ連が失速し解体してしまった。日本の安住と油断が続く間に、ソ連の失敗に教訓を得て、しかも日本のODA(政府開発援助)を原資にするかのようにして、資本主義自由経済を取り込んだ共産主義一党独裁の中国が出現したのである。脅威を与える国は替ったが、清水氏の考察は、依然として参考になる。
井尻千男氏は「戦って敗れることと、戦わずして屈服することの間には、天と地ほどの差がある。『和平』を選んで服従した場合、その悔恨と怨みはほぼ永遠に晴れない。近隣諸国の戦後史を見れば察しがつくだろう」(『新・地球日本史』)と述べる。
大東亜戦争で、戦わずに勝った国が中国と韓国である。ともに、歴然とした戦果がないために、南京大虐殺や従軍慰安婦のようなものを捏造して日本にぶつける以外にない。
憲法が「平和」を守ったのか
「税金ドロボー、憲法違反、オモチャの軍隊、飛行クラブなどと蔑まれてきた自衛隊」であり、住民や漁業、民間航空機優先で、陸・海・空自衛隊は存分の訓練もできない、「まるで『何もするな』といわれているようなもの」(清水著)であった。
このように後ろ指を指されながらも、一般の国民には想像もつかない厳しい訓練に明け暮れ、いざという時には正面に立って相手を抑える「抑止力」を磨いてきた。戦火を交えることはなかったが、厳しい訓練で約1800人の殉職者が出ている(ちなみに警察官は約200人といわれる)。
また、PKO(平和維持活動)でインド洋やイラクに派遣された自衛官約2万2000人のうち、54人が自殺していることが分かった(「産経新聞」27.5.28付)。防衛省は派遣任務と自殺の因果関係の特定は困難としているが、日本人男性の自殺率は10万人につき30.3人(2013年)であり、派遣隊員は約8倍と異常に高い。
戦時でこそないが、平和維持の国際貢献が複合的な影響をもたらした結果ではなかろうか。こうした視点からは、日本の平和を守ってきたのは憲法ではなく、犠牲者を含む自衛官であると言えなくもない。
国民には自衛隊は何でもできると思われている向きがある。しかし、日本特有の憲法9条によって、能力は持っていても、やってはいけないことが多い。
やっていけない事態の対処訓練はやれないし、そうした事案が発生した場合の事案対処は、訓練していないので当然のことながらできない。国民の自衛隊に対する認識と、法的制約下に許容される自衛隊の活動との落差は大きな問題である。
累次の海外派遣や東日本大震災でも、やる能力はあるが法的制限でやってはいけないことも多く、現場指揮官をはじめ、隊員は苦悶したと仄聞した。言うなれば、フェラーリを運転しながら時速60キロ制限の一般道を走らせているようなものである。
これまでの自衛隊は、PKOや災害派遣などで「○○はしてよい」というポジティブ・リスト方式で行動してきた。有事においては○○以外の事象が頻出すると予測され、対処ができず任務の達成も部隊の安全も損なわれることが憂慮される。
自衛隊がもてる力を存分に発揮し、以って日本の名誉を高め、活動する自衛隊の健在(とプライドの保持)を図るためには、諸国並みに「××はしてはならない」というネガティブ・リスト方式で、指揮官と部隊が迅速に対処できる法制が不可欠であろう。
おわりに
田中耕太郎最高裁長官は、砂川事件の判決理由に続く「補足意見」で、「憲法9条の平和主義の精神は、憲法前文の理念と相まって不動である。それは侵略戦争と国際紛争解決のための武力行使を永久に放棄する。しかしこれによって我が国が平和と安全のための国際共同体に対する義務を当然免除されたものと誤解してはならない。(中略)自国本位の立場を去って普遍的な政治道徳に従う立場をとらない限り、すなわち国際的次元に立脚して考えない限り、憲法9条を矛盾なく正しく解釈することはできない」と述べている。
ここに言う「国際的次元」とは、安全保障においては集団的自衛権の問題であり、実際に行動する自衛隊にとってはネガティブ・リスト方式の採用ということではないだろうか。
拉致問題が放置され、邦人救出もできない。ともに国際的次元に立脚した憲法解釈をしてこなかったからである。こうして、日本は国家の要件である主権の尊重、領域の保全、国民の安全のどれ一つとして真面(まとも)でない状態を作ってきた。
「国家」の体をなしていなかった日本が、いまようやく、「国家」に脱皮しようとしている。安保法案は、そうした位置にあるのである。JUGEMテーマ:
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